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2018年 01月 09日
岸田劉生の絵は見ていると疲れる。でもこの凝視の力強さに影響を受けていた時期があったなぁと...思い出した。専門学校の3年の初めの頃、3年になると課題は自分で組むのだけど、初めの課題は金属製の歪んだバケツを写実的に描いて。続いて学校の裏にあった土手を風景画として描いたのだけど、これは岸田劉生の「赤土と草」を意識していたっけな。結果としては不出来なもので、この最初の二作で写実的な表現は半ば諦めた感がある。多分苦い記憶なので忘れてたんだろうかと。 今、岸田劉生の絵を見ると。風景はやっぱり魅力的でちょっと爽やかにさえ見えることも。東洋美術に傾倒した卑近美(でろり)の頃は苦手かも。でも「内なる美」を含めて考え方には興味がある。 「画家が自然物の或る現象に会って、それを美しいと感じる。その時は画家の内なる無形の美が、有形の現象の中に自己を見出した時だ、その時画家は「之れだ」と内に肯くものを感じる。更に精細な美が部分と全体に亘つて発見される。その時画家は一々肯くものを感じる。ああ美しいと思ふ感じの裏にはいつもこの肯定がある。」 別冊太陽に掲載、美乃本體の一文だけど、強い言葉だなぁと。でも意味としては分かる。昨今の写真、アートのステートメントが作品を生み出すための信条から分離して他人の評価を気に過ぎているように見える時があるけど、なんでそう見えるんだろう。とふと考えてしまった。
by nyazin
| 2018-01-09 03:59
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